村芝居(鲁迅作品日文版)
文章作者 100test 发表时间 2007:08:06 11:31:53
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わたしが支那の芝居を見たのは過去二十年間にたった二度だけであった。前の十年は絶対に見なかった。また見ようという意思も機会もなかったから、その二度はどちらも後の十年のうちで、しかもとうとう何の意味をも見出さずに出て来たのだ。
第一囘は民国元年、わたしが初めて北京へ行った時、ある友達から「ここの芝居は一番いいから、以て世相を見てはどうかナ」と言われて、「芝居見物も面白かろう、まして北京だもの」と大に興じてすぐに何やら園とかいう処へ行ったら、もう世話物が始まっていて、小屋の外には太鼓の響が洩れていた。わたしどもは木戸口を入ると、赤いものだの、青いものだの、幾つも眼の前にキラめいて、舞台の下にたくさんの頭を見たが、よく気をつけて見なおすと、まん中にまだ幾つかの空席があったから、そこへ行って坐ろうとした時、わたしに向って、何か言った者があった。最初はガンガンという銅鑼の音で、よく聞えなかったが、注意して聞くと、「人が来るから、そこへ坐ってはいけない」というのだ。
わたしどもはぜひなく後ろへ引返して来ると、辮子のぴかぴか光った男が、わたしどもの側へ来て一つの場所を指さした。その場所は細長い腰掛で幅はわたしの上腿の四分の三くらい狭く、高さは下腿の三分の二よりも高い。まるで拷問の道具に好く似ているので、わたしは思わずぞっとして退いた。
二三歩あるくと、友達が、「君、どうしたんだえ」とわたしのあとから跟いて来た。
「なぜ行くのだ。返辞をしたまえな」
「いやどうも失敬、なんだかドンドンガンガンして、君のいうことはサッパリ聞えないよ」
あとで考えてみると、全く変なことで、この芝居はあまり好くなかったかもしれない。でなければわたしは舞台の下にじっとしていられない質なんだろう。
第二囘はいつのことだか忘れたが、とにかく湖北水災義捐金を募集して譚叫天がまだ生きている時分だ。その募集の方法は、二元の切符を買って第一舞台で芝居見物をするので、そこに出る役者は皆名人で、小叫天もその中にいた。
わたしが切符を一枚買ったのは本来、人の勧めに依った責め塞げであったが、それでも誰か、叫天の芝居は見ておくものだ、といったことがあったらしく、前年のドンドンガンガンの災難も忘れてつい第一舞台へ行って見る気になった。まあ半分は、高い価を出した大事の切符を使えば気が済むのでもあった。
わたしは叫天の出る幕が遅いと聞いていたので、第一舞台は新式の劇場だから座席を争うようなことはあるまいと、わざと九時まで時を過してやっとこさと出て行った。ところが、その日も相変らず人が一杯で、立っているのも六ツかしいくらい。わたしは仕方なしに後方の人込みに揉まれて舞台を見ると、ふけおやまが歌を唱っていた。その女形は口の辺に火のついた紙捻を二本刺し、側に一人の邏卒が立っていた。わたしは散々考えた末、これは目蓮の母親らしいな、と想った。あとで一人の和尚が出たから気がついたので、さはいいながら、この役者が誰であるかを知らなかった。そこでわたしの左側に押されて小さくなっていた肥えた紳士に訊いてみると、彼はさげすむような目付でわたしを一目見て、「雲甫」と答えた。わたしはひどく極りが悪くなって顔がほてって来た。
同時に頭の中で、もう決して人に訊くもんじゃないと思った。そこで子役を見ても、女形を見ても立役を見ても、どういう質の役者が何を唱っているのか知らずに、大勢が入り乱れたり、二三人が打合ったり、そんなことを見ている間に九時から十時になった。十時から十一時半になった。十一時半から十二時になった。――そうして叫天はとうとう出て来なかった。
わたしは今まで何事に限らずこんなに我慢して待ったことはなかった。いわんやわたしの側にいた紳士はハーハー息をはずませて肥えた身体を持てあましていた、舞台の上のどんちゃん、どんちゃんの囃や、紅や緑のまぶしいキラめき。その時十二時だ。たちまちわたしはとてもこんな処にいられないと思った。同時にわたしは機械的に身を捻って力任せに外の方へと押出した。後ろは一杯の人で通る路もなかったが、大概その弾力性に富んだ肥えた紳士が、早くもわたしの抜け出したあとに、彼の右半身を突込んだので、わたしは自然に押され押されて木戸口に出てしまった。
街は観客の車以外にはほとんど一人も通行人がなかった。それでも木戸口には十何人か頭を昂げて芝居の番附を見ていた。外に一かたまりの人が、何にも見ずに立っていた。わたしは何にも知らずに来たことを我れながら悔んだが、結局芝居の題目さえも忘れてしまった。
わたしが実際いい芝居を見たのは、それよりずっと前の事だ。
その時おそらくまだ十一二にもならなかったろう。わたしども魯鎮の習慣は、およそ誰でも嫁に入ったむすめは、まだ当主にならないうちは、夏の間たいていは里方に行って暮すのである。その時分わたしの祖母はまだ達者であったが、母もいくらか家事の手伝いをしていたので、夏も長く帰っていることは出来なかった。ぜひなく墓掃除をすましたあとで、二三日の暇を見て抜け出して行くのであった。わたしは母親に跟いて外祖母の家に遊びに行ったことがある。そこは平橋村と言って、ある海岸から余り遠くもないごくごく偏僻な河添いの小村で、戸数がやっと三十くらいで、みな田を植えたり、魚を取ったりそういう暮しをしている間に、ただ雑貨屋が一軒あるだけであったが、わたしに取っては極楽世界であった。ここへ来れば優待されるのみか「秩秩斯干幽幽南山」などというものを唸らなくともいいからである。
わたしと一緒に遊ぶいろいろの小さな友達が遠客が来たので、彼等もまた父母の許しを得て、仕事を控えてわたしのお相手をした。小村の中の一家の客もほとんど大概芝居のハネたあとの女を見に行くことを考えていた。しかし叫天はそこにもやッぱりいなかった……
さはさりながら夜の空気は非常に爽かで、全く「人の心脾に沁む」という言葉通りで、わたしが北京に来てからこの様ないい空気に遇ったのは、この芝居帰りの外にはなかったようにも覚えた。
この一夜はとりもなおさず、わたしが支那芝居に告別をした一夜で、もう一度そんなことに遇おうとも思わず、たまたま芝居小屋の前を過ぎても、わたしどもとはまるきり関係がなく、精神がすでに一つは天の南にあり、一つは地の北にあった。
けれどもその二三日前にわたしは思いがけなくある日本の本を読んだ。惜しいことには本の名前も著者の名前も忘れてしまったが、とにかく支那芝居に関することで、その中の一篇をかいつまんでいうと、支那芝居は無闇に叩き、無暗に叫び、無暗に踊り、観客の頭を昏乱させるから、劇場向きではないが、野広いところで遠くの方から見ていると、自然に面白味がわかって来ると書いてあった。わたしはその時そう思った。これはいつもわたしの胸の中にあってまだ言い出したことのない言葉だと。だからわたしはいい芝居は野外で見られるものと、しっかり覚えていた。北京へ行ってからも芝居小屋に二度入ったが、やッぱりあの時の影響を受けたのかもしれない。何しろこれは公共のものではないか。
わたしどもは年頃もおつかつだったが順序から言えば一番下の弟だ。外に幾人も目上の者がある。村じゅうは皆同姓で一家であった。そうはいうもののわたしどもは友達だ。喧嘩でもして年上の者を打つと一村の者は老人も若い者も、目上という言葉を想い出せない。彼等は百人中、九十九人は字を知らなかった。
わたしどもの日々の仕事は大概蚯蚓を掘って、それを針金につけ、河添いに掛けて蝦を釣るのだ。蝦は水の世界の馬鹿者で遠慮会釈もなしに二つの鋏で鈎の尖を捧げて口の中に入れる。だから半日もたたぬうちに大きな丼に一杯ほど取れる。その蝦はいつもわたしが食べることになるのだ。その次は皆と一緒に牛を飼うのだがこれは高等動物のせいかもしれない。黄牛も水牛も空をつかってわたしを馬鹿にする。わたしは側へゆくことが出来ないで遠くの方で立っていると小さな友達はわたしが「秩秩斯干」が読めることなど頓著なしに寄ってたかって囃し立てる。