阿Q正伝(鲁迅作品日文版)

文章作者 100test 发表时间 2007:08:06 11:31:14
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        第一章 序

 わたしは阿あキューの正伝を作ろうとしたのは一年や二年のことではなかった。けれども作ろうとしながらまた考えなおした。これを見てもわたしは立言の人でないことが分る。従来不朽の筆は不朽の人を伝えるもので、人は文に依って伝えらる。つまり誰某たれそれは誰某にって伝えられるのであるから、次第にハッキリしなくなってくる。そうして阿Qを伝えることになると、思想の上に何か幽霊のようなものがあって結末があやふやになる。
 それはそうとこの一篇の朽ち易い文章を作るために、わたしは筆を下すが早いか、いろいろの困難を感じた。第一は文章の名目であった。孔子様の被仰おっしゃるには「名前が正しくないと話が脱線する」と。これは本来極めて注意すべきことで、伝記の名前は列伝、自伝、内伝、外伝、別伝、家伝、小伝などとずいぶん蒼蝿うるさいほどたくさんあるが、惜しいかな皆合わない。
 列伝としてみたらどうだろう。この一篇はいろんな偉い人と共に正史の中に排列すべきものではない。自伝とすればどうだろう。わたしは決して阿Qその物でない。外伝とすれば、内伝が無し、また内伝とすれば阿Qは決して神仙ではない。しからば別伝としたらどうだろう。阿Qは大総統の上諭に依って国史館に宣付せんぷして本伝を立てたことがまだ一度もない。――英国の正史にも博徒列伝というものは決して無いが、文豪ヂッケンスは博徒別伝という本を出した。しかしこれは文豪のやることでわれわれのやることではない。そのほか家伝という言葉もあるが、わたしは阿Qと同じ流れを汲んでいるか、どうかしらん。彼の子孫にお辞儀されたこともない。小伝とすればあるいはいいかもしれないが、阿Qは別に大伝たいでんというものがない。煎じ詰めるとこの一篇は本伝というべきものだが、わたしの文章の著想ちゃくそうからいうと文体が下卑ていて「車を引いて漿のりを売る人達」が使う言葉を用いているから、そんな僭越な名目はつかえない。そこで三教九流の数にらない小説家のいわゆる「閑話休題、言帰正伝」という紋切型の中から「正伝」という二字を取出して名目とした。すなわち古人が撰した書法正伝のそれに、文字もんじの上から見るとはなはだ紛らしいが、もうどうでもいい。
 第二、伝記を書くには通例、しょっぱなに「何某、あざなは何、どこそこの人也」とするのが当りまえだが、わたしは阿Qの姓が何というか少しも知らない。一度彼はちょうと名乗っていたようであったが、それも二日目にはあいまいになった。
 それは趙太爺だんなの息子が秀才になった時の事であった。阿Qはちょうど二碗の黄酒うわんちゅを飲み干して足踏み手振りして言った。これで彼も非常な面目を施した、というのは彼と趙太爺はもともと一家の分れで、こまかく穿鑿せんさくすると、彼は秀才よりも目上だと語った。この時そばに聴いていた人達は粛然としていささか敬意を払った。ところが二日目には村役人が阿Qをびに来て趙家に連れて行った。趙太爺は彼を一目見ると顔じゅう真赤まっかにして怒鳴った。
「阿Q! キサマは何とぬかした。お前が乃公おれの御本家か。たわけめ」
 阿Qは黙っていた。
 趙太爺は見れば見るほど癪に障って二三歩前に押し出し「出鱈目でたらめもいい加減にしろ。お前のような奴が一家にあるわけがない。お前の姓は趙というのか」
 阿Qは黙って身を後ろに引こうとした時、趙太爺は早くも飛びかかって、ぴしゃりと一つれた。
「お前は、どうして趙という姓がわかった。どこからその姓を分けた」
 阿Qは彼が趙姓である確証を弁解もせずに、ただ手を以て左の頬を撫でながら村役人と一緒に退出した。外へ出るとまた村役人から一通りお小言をきいて、二百文の酒手を出して村役人にお詫びをした。この話を聴いた者は皆言った。阿Qは実に出鱈目な奴だ。自分でなぐられるようなことを仕出かしたんだ。彼は趙だか何だか知れたもんじゃない。よし本当に趙であっても、趙太爺がここにいる以上は、そんなたわごとを言ってはけしからん。それからというものは彼の名氏みょうじを持ち出す者が無くなって、阿Qは遂に何姓であるか、突きとめることが出来なかった。
 第三、わたしはまた、阿Qの名前をどう書いていいか知らない。彼が生きている間は、人は皆阿 Quei と呼んだ。死んだあとではもう誰一人阿 Quei の噂をする者がないので、どうして「これを竹帛ちくはくに著す」ことが出来よう。「これ竹帛に著す」ことから言えば、この一篇の文章が皮切であるから、まず、第一の難関にぶつかるのである。わたしはつくづく考えてみると、阿 Quei は、阿桂あくいあるいは阿貴あくいかもしれない。もし彼に月亭げっていという号があってあるいは生れた月日が八月の中頃であったなら、それこそ阿桂に違いない。しかし彼には号がない。――号があったかもしれないが、それを知っている人は無い。――そうして生年月日を書いた手帖などどこにも残っていないのだから、阿桂ときめてしまうのはあんまり乱暴だ。
 もしまた彼に一人の兄弟があって阿富あふと名乗っていたら、それこそきっと阿貴に違いない。しかし彼は全くの独り者であってみると、阿貴とすべき左証がない。その他 Quei と発音する文字もんじは皆変槓へんてこな意味が含まれいっそうはまりが悪い。以前わたしは趙太爺のせがれ茂才もさい先生に訊いてみたが、あれほど物に詳しい人でも遂に返答が出来なかった。しかし結論から言えば、陳獨秀ちんどくしゅうが雑誌「新青年」を発行して羅馬ローマ字を提唱したので国粋がほろびて考えようが無くなったんだ。そこでわたしの最後の手段はある同郷生に頼んで、阿Q事件の判決文を調べてもらうよりほかはなかった。そうして一個月たってようやく返辞へんじが来たのを見ると、判決文の中に阿 Quei の音に近い者は決して無いという事だった。わたし自身としては本当にそれが無いということは言えないが、もうこの上は調べようがない。そこで、注音字母ちゅうおんじぼでは一般に解るまいと思って拠所よんどころなく洋字を用い、英国流行の方法で彼を阿 Quei としょし、更に省略して阿Qとした。これは近頃「新青年」に盲従したことで我ながら遺憾に思うが、しかし茂才先生でさえ知らないものを、わたしどもに何のいい智慧が出よう?
 第四は阿Qの原籍だ。もし彼が趙姓であったなら、現在よく用いらるる郡望まつりの旧例にり、郡名百家姓ぐんめいひゃっかせいに書いてある注解通りにすればいい。「隴西天水ろうせいてんすいの人也」といえば済む。しかし惜しいかな、その姓がはなはだ信用が出来ないので、したがって原籍も決定することが出来ない。彼は未荘みそうに住んだことが多いがときどき他処たしょへ住むこともある。もしこれを「未荘の人也」といえばやはり史伝の法則にそむく。
 わたしが幾分自分で慰められることは、たった一つの阿の字が非常に正確であった。こればかりはこじつけやかこつけではない。誰が見てもかなり正しいものである。その他のことになると学問の低いわたしには何もかも突き止めることが出来ない。ただ一つの希望は「歴史癖と考証ずき」で有名な胡適之こてきし先生の門人が、ひょっとすると将来幾多の新端緒たんしょを尋ね出すかもしれない。しかしその時にはもう阿Q正伝は消滅しているかもしれない。

        第二章 優勝記略

 阿Qは姓名も原籍も少々あいまいであった。のみならず彼の前半生の「行状」もまたあいまいであった。それというのも未荘の人達はただ阿Qをコキ使い、ただ彼をおもちゃにして、もとより彼の「行状」などに興味を持つ者がない。そして阿Q自身も身の上話などしたことはない。ときたま人と喧嘩をした時、何かのはずみに目をみはって
「乃公達だって以前は――てめえよりゃよッぽど豪勢なもんだぞ。人をなんだと思っていやがるんだえ」というくらいが勢一杯せいいっぱいだ。
 阿Qは家が無い。未荘の土穀祠おいなりさまの中に住んでいて一定の職業もないが、人に頼まれると日傭取ひようとりになって、麦をひけと言われれば麦をひき、米をけと言われれば米を搗き、船を漕げと言われれば船を漕ぐ。仕事が余る時には、臨時に主人の家に寝泊りして、済んでしまえばすぐに出てく。だから人はせわしない時には阿Qを想い出すが、それも仕事のことであって「行状」のことでは決して無い。いったん暇になれば阿Qも糸瓜へちまもないのだから、彼の行状のことなどなおさら言い出す者がない。しかし一度こんなことがあった。あるお爺さんが阿Qをもちゃげて「お前は何をさせてもソツが無いね」と言った。この時、阿Qはひじを丸出しにして(支那チョッキをじかに一枚著ている)無性ぶしょう臭い見すぼらしい風体で、お爺さんの前に立っていた。はたの者はこの話を本気にせず、やっぱりひやかしだと思っていたが、阿Qは大層喜んだ。
 阿Qはまた大層己惚うぬぼれが強く、未荘の人などはてんで彼の眼中にない。ひどいことには二人の「文童ぶんどう」に対しても、一笑の価値さえ認めていなかった。そもそも「文童」なる者は、将来秀才となる可能性があるもので、趙太爺や錢太爺せんだんなが居民の尊敬を受けているのは、お金がある事のほかに、いずれも文童の父であるからだ。しかし阿Qの精神には格別の尊念が起らない。彼は想った。乃公だってせがれがあればもっと偉くなっているぞ! 城内に幾度も行った彼は自然己惚れが強くなっていたが、それでいながらまた城内の人をさげすんでいた。たとえば長さ三じゃく幅三寸の木の板で作った腰掛は、未荘では「長登チャンテン」といい、彼もまたそう言っているが、城内の人が「条登デョーテン」というと、これは間違いだ。おかしなことだ、と彼は思っている。たら煮浸にびたしは未荘では五分切の葱の葉を入れるのであるが、城内では葱を糸切りにして入れる。これも間違いだ、おかしなことだ、と彼は思っている。ところが未荘の人はまったくの世間見ずで笑うべき田舎者だ。彼等は城内の煮魚さえ見たことがない。
 阿Qは「以前は豪勢なもん」で見識が高く、そのうえ「何をさせてもソツがない」のだから、ほとんどいっぱしの人物と言ってもいいくらいのものだが、惜しいことに、彼は体質上少々欠点があった。とりわけ人に嫌らわれるのは、彼の頭の皮の表面にいつ出来たものかずいぶん幾個所いくこしょかさだらけの禿はげがあった。これは彼の持物であるが、彼のおもわくを見るとあんまりいいものでもないらしく、彼は「らい」という言葉を嫌って一切「らい」に近いおんまでも嫌った。あとではそれをしひろめて「りょう」もいけない。「こう」もいけない。その後また「とう」も「しょく」も皆いけなくなった。そういう言葉をちょっとでももらそうものなら、それが故意であろうと無かろうと、阿Qはたちまち頭じゅうの禿を真赤まっかにして怒り出し、相手を見積って、無口の奴は言い負かし、弱そうな奴はなぐりつけた。しかしどういうものかしらん、結局阿Qがやられてしまうことが多く、彼はだんだん方針を変更し、大抵の場合は目を怒らして睨んだ。
 ところがこの怒目どもく主義を採用してから、未荘のひま人はいよいよ附け上がって彼をなぶり物にした。ちょっと彼の顔を見ると彼等はわざとおッたまげて
「おや、明るくなって来たよ」
 阿Qはいつもの通り目を怒らして睨むと、彼等は一向平気で
「と思ったら、空気ランプがここにある」
 アハハハハハと皆は一緒になって笑った。阿Qは仕方なしに他の復讎の話をして
「てめえ達は、やっぱり相手にならねえ」
 この時こそ、彼の頭の上には一種高尚なる光栄ある禿があるのだ。ふだんのまだら禿とは違う。だが前にも言ったとおり阿Qは見識がある。彼はすぐに規則違犯を感づいて、もうその先きは言わない。
 閑人ひまじん達はまだやめないで彼をあしらっていると、遂にに打ち合いになる。阿Qは形式上負かされて黄いろい辮子べんつを引張られ、壁に対して四つ五つ鉢合せを頂戴ちょうだいし、閑人はようやく胸をすかして勝ちほこって立去る。
 阿Qはしばらく佇んでいたが、心のうちで思った。「[#「「」は底本では欠落]乃公はつまり子供に打たれたんだ。今の世の中は全く成っていない……」そこで彼も満足し勝ちほこって立去る。
 阿Qは最初この事を心のうちで思っていたが、遂にはいつも口へ出して言った。だから阿Qとふざける者は、彼に精神上の勝利法があることをほとんど皆知ってしまった。そこで今度彼の黄いろい辮子を引掴ひっつかむ機会が来るとその人はまず彼に言った。
「阿Q、これでも子供が親爺おやじを打つのか。さあどうだ。人が畜生を打つんだぞ。自分で言え、人が畜生を打つと」
 阿Qは自分の辮子で自分の両手を縛られながら、頭を歪めて言った。
「虫ケラを打つを言えばいいだろう。わしは虫ケラだ。――まだ放さないのか」
 だが虫ケラと言っても閑人は決して放さなかった。いつもの通り、ごく近くのどこかの壁に彼の頭を五つ六つぶっつけて、そこで初めてせいせいして勝ちほこって立去る。彼はそう思った。今度こそ阿Qは凹垂へこたれたと。
 ところが十秒もたたないうちに阿Qも満足して勝ちほこって立去る。阿Qは悟った。乃公はみずから軽んじ自らいやしむことの出来る第一の人間だ。そういうことが解らない者は別として、その外の者に対しては「第一」だ。状元じょうげんもまた第一人じゃないか。「人を何だと思っていやがるんだえ」
 阿Qはこういう種々の妙法を以て怨敵を退散せしめたあとでは、いっそ愉快になって酒屋に馳けつけ、何杯か酒を飲むうちに、また別の人と一通り冗談を言って一通り喧嘩をして、また勝ちほこって愉快になって、土穀祠おいなりさまに帰り、頭を横にするが早いか、ぐうぐうねむってしまうのである。
 もしお金があれば彼は博奕ばくちを打ちにく。一かたまりの人が地面にしゃがんでいる。阿Qはその中に割込んで一番威勢のいい声を出している。
青竜四百ちんろんすーぱ!」
「よし……あける……ぞ」
 堂元は蓋を取って顔じゅう汗だらけになってうたい始める。
天門てんもんあたり――隅返すみがえし、人と、中張なかばり張手はりて無し――阿Qのぜにはお取上げ――」
中張百文なかばりひゃくもん――よし百五十もん張ったぞ」
 阿Qの銭はこのような吟詠のもとに、だんだん顔じゅう汗だらけの人の腰の辺に行ってしまう。彼は遂にやむをえず、かたまりのそとへ出て、後ろの方に立って人の事で心配しているうちに、博奕ばくちはずんずん進行しておしまいになる。それから彼は未練らしく土穀祠おいなりさまに帰り、翌日は眼のふちを腫らしながら仕事に出る。
 けれど「塞翁さいおうが馬を無くしても、災難とまったものではない」。阿Qは不幸にして一度勝ったが、かえってそれがためにほとんど大きな失敗をした。
 それは未荘の祭の晩だった。その晩例に依って芝居があった。例に依ってたくさんの博奕場ばくちばが舞台の左側に出た。はやしの声などは阿Qの耳から十里の外へ去っていた。彼はただ堂元の歌の節だけ聴いていた。彼は勝った。また勝った。銅貨は小銀貨となり、小銀貨は大洋だーやんになり、大洋だーやんは遂に積みかさなった。彼は素敵な勢いで「天門両塊てんもんりゃんかい」と叫んだ。
 誰と誰が何で喧嘩を始めたんだか、サッパリ解らなかった。怒鳴るやら殴るやら、バタバタ馳け出す音などがしてしばらくの間眼が眩んでしまった。彼が起き上った時には博奕場も無ければ人も無かった。身中みうちにかなりの痛みを覚えて幾つも拳骨をい、幾つも蹶飛けとばされたようであった。彼はぼんやりしながら歩き出して土穀祠おいなりさまに入った。気がついてみると、あれほどあった彼のお金は一枚も無かった。博奕場にいた者はたいていこの村の者では無かった。どこへ行って訊き出すにも訊き出しようがなかった。
 まっ白なピカピカした銀貨! しかもそれが彼の物なんだが今は無い。子供にられたことにしておけばいいが、それじゃどうも気が済まない。自分を虫ケラ同様に思えばいいが、それじゃどうも気が済まない。彼は今度こそいささか失敗の苦痛を感じた。けれど彼は失敗を転じて遂に勝ちとした。彼は右手を挙げて自分のおもてを力任せに引ッぱたいた。すると顔がカッとして火照ほてり出しかなりの痛みを感じたが、心はかえって落ちいて来た。打ったのはまさに自分に違いないが、打たれたのはもう一人の自分のようでもあった。そうこうするうちに自分が人を打ってるような気持になった。――やっぱり幾らか火照ほてるには違いないが――心は十分満足して勝ちほこって横になった。
 彼は睡ってしまった。

        第三章 続優勝記略

 それはそうと、阿Qはいつも勝っていたが、名前が売れ出したのは、趙太爺の御ちょうちゃくを受けてからのことだ。
 彼は二百文の酒手さかてを村役人に渡してしまうと、ぷんぷん腹を立てて寝転んだ。あとで思いついた。
「今の世界は話にならん。倅が親爺を打つ……」
 そこでふと趙太爺の威風を想い出し、それが現在自分の倅だと思うと我れながら嬉しくなった。彼が急に起き上って「若寡婦ごけの墓参り」という歌をうたいながら酒屋へ行った。この時こそ彼は趙太爺よりも一段うわ手の人物に成り済ましていたのだ。
 変槓へんてこなこったがそれからというものは、果してみんながことほか彼を尊敬するようになった。これは阿Qとしては自分が趙太爺の父親になりすましているのだから当然のことであるが、本当のところはそうでなかった。未荘の仕来しきたりでは、阿七あしち阿八はちを打つような事があっても、あるいは李四りし張三ちょうさんを打っても、そんなことは元より問題にならない。ぜひともある名の知れた人、たとえば趙太爺のような人と交渉があってこそ、初めて彼等の口にに掛るのだ。一遍口の端に掛れば、打っても評判になるし、打たれてもそのお蔭様で評判になるのだ。阿Qの思い違いなどもちろんどうでもいいのだ。そのわけは? つまり趙太爺に間違いのあるはずはなく、阿Qに間違いがあるのに、なぜみんなは殊の外彼を尊敬するようになったか? これは箆棒べらぼうな話だが、よく考えてみると、阿Qは趙太爺の本家だと言って打たれたのだから、ひょっとしてそれが本当だったら、彼を尊敬するのは至極穏当な話で、全くそれに越したことはない。でなければまたのような意味があるかもしれない。聖廟せいびょうの中のお供物のように、阿Qは豬羊ちょようと同様の畜生であるが、いったん聖人のお手がつくと、学者先生、なかなかそれを粗末にしない。



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