天声人語07年8月29日

文章作者 100test 发表时间 2007:09:06 11:44:12
来源 100Test.Com百考试题网


横 綱

  凜烈な作風で知られた小説家立原正秋が、筆名について書いていた。ほとんどの郵便はペンネームで来るが、まれに本名で届くものがある。本名をしげしげと眺め、「これは一体誰なのか」と妙な気分になる。そんな内容だったと記憶する。
  素以风格犀利闻名的小说家立原正秋曾经就笔名写过一段话。(他的)大部分的信件都是冠以笔名寄来的,不过偶尔也有以其本名寄来的。仔细端详着本名,便会泛起一种“这到底是谁啊”的奇妙心情。(他)记得有过这样的事。

  似た気分を、モンゴル人のドルゴルスレン ? ダグワドルジ も味わっているのかもしれない。「朝青龍」なるしこ名を眺め、「これは一体誰なのか」と。謹慎の様子はうかがい知れない。だが日を重ねるほど、彼の心の中で、本名の嵩(かさ)が増しているように思われる。
  蒙古人高尔斯仁 · 达格瓦道尔吉或许也品味着相似的感受。望一眼“朝青龙”这个称呼,也会(疑惑着),“这究竟是谁?”无法想象(他)那小心起解的样子。然而人们觉着,越是随着岁月的流逝,在他的心中,本名的分量就越来越重。

  きびしい状況への配慮だろう。日本相撲協会は横綱の帰国を認めた。早ければ今日にも発(た)つ。帰ったきり、二度と「朝青龍」には戻らない可能性も、なくはないらしい。ここまでこじれた責任の一端は、丁寧な意思疎通を欠いた師匠と協会にもあろう。
  或许是担心着那严峻的情形吧。日本相扑协会同意了高尔斯仁·达格瓦道尔吉横纲的归国。早的话,今天就会出发。一旦回国,似乎就不太可能再以“朝青龙”的身份回来了。迄今为止,在使事情复杂化的责任问题上,缺乏妥善沟通的师傅与协会都有一份吧。

  この世界で師匠といえば、実の親も同然と聞く。横綱審議会委員だった作家の舟橋聖一が、双葉山父子を回想している。双葉山は幼い時、友達の吹き矢が当たって右の目を失明した。父親は、だれが矢を吹いたのか知っていながら、死ぬまで口を閉ざし続けたという。
  听说,在(相扑)这个世界里,说起师傅来,俨然如生父。曾经是横纲审议会委员的作家舟桥圣一遍回忆起了双叶山父子。双叶山儿时曾因朋友的吹箭而右眼失明。据说,他的父亲虽然知道是谁吹的箭却直到死都闭口未言。

  恨まれる者より、恨む本人にとってどれだけマイナスになるか。分別を踏まえた深い愛情のゆえだった、と作家は書いている(「片目の横綱双葉山」)。
  作家(舟桥圣一)这样写道,“比起仇人,对于怨恨者本人而言又有多少好处呢?因为这是基于识大体之上的深沉爱”(《独目横纲双叶山》)。

  この父親にして、品高き名力士ありだろう。双葉山も隻眼のハンディを秘したまま、無敵の相撲を取り続けた。鑑(かがみ)もあれば不出来な親子もあるとは知りつつ、騒動の口直しに紹介してみたくなった。
  这位父亲也是一位品德高尚的名力士吧。双叶山隐瞒着双眼的不利因素,不断挑战无敌相扑。虽然知道有了模范与榜样也会有不肖之父子,然而仍然想讲一讲这个故事以消除纷争。



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